討論会でかいま見える社会の問題

郡上青年会議所主催、リンカーンフォーラム後援による郡上市長選挙公開討論会(詳細画像参照のこと。※画像の権利は保護されています)に行ってきました。
討論の内容とは直接関係はないのですが、少し気になることがありました。些細なことですが、私たちの「社会」を考える上では大事なことだと思うし、自分の意見や特性を伝える為にも、よい機会となるので取り上げてみます。

登壇されたのは、山川ひろやす氏と、田中やすひさ氏のお二人です。
事前のアンケート調査によりピックされた討論テーマ(「人口減少、人口流出について」「経済を活性化するために」「福祉の課題と対策」)について相互に意見を述べ合いました。
互いに質問する、直接的な討論をする、といったことも可能でしたが、そのような場面はなく、各自持ち時間を使い切ると、以後はコーディネーターが臨機応変にいくつか質問する…といった形で行われました。

市民の市政への関心を高め、投票・行動意欲を刺激する「討論会」が開催されることはとても有意義な事です。実際、聴き応えのあるものでしたし、来場者も少ないとは言えず、熱気を感じました。

総じて「良かった」と言えるものではあったのですが…、壇上マイクの前に献花台を作ってしまって(それもかなり大きい)、登壇者の姿が全く見えない…という舞台演出に問題を感じました。
そんなこと?と思うかもしれません。でも、まあ、聞いてください。

後ろの座席だと舞台全体を高い位置で俯瞰することになりますから多少マシにはなるでしょう。しかし献花が対象者の前に視線を遮る障害物としてある以上、後ろに下がってもバストショットで手元の動きから対象者を観る…などということは不可能です。この点はどの位置に座っても不可能でしょう。

一方、前に座る人というのは一般になるべく「対象者を間近に見たい欲求や理由があるから前にいく」わけですね。ところが今度は前に行けば行くほど献花台が大きくなり角度によると対象者をほぼ隠してしまう、対象者が全く見えなくなる…という矛盾に直面します。

後ろに引けば対象物は小さくなる、近寄ると対象物は完全に見えなくなる…という、結果どこに座っても対象物を観察出来ない、あるいは位置によっては体験出来ることに著しい不均衡が生じる、という不条理な状況を作り出していました。

花を見せたい気持ちは分かるのですが、「情報」としての「献花」は一瞬で消費されてしまいます。「あ、キレイだな」「すごいな」で終わるわけです。なぜならば、来場者は生花の展覧会に来たわけではないからです。「花を見に来た」という前提なら、その人は何十分も花を見つめていられるでしょう。でも、ここは「討論会」ですよね。
どうしても花を見せたいなら、登壇者の横や後ろに立てても良かったはずです。「登壇者と花を同時に見せる方法はいくらでもある」わけですね。

そして最大の問題は、その不便で理不尽な状況を誰も直すことが出来ない、途中からでも間に合うのに、最後までその時間と空間を互いに共有し、許容していかなければならない…ということです。

ここからが本題ですが、どうしてこれが「社会の問題」かということです。

およそ近代以降、私たちの「社会」が何をしてきたか、何を求められてきたか。
いくつかあると思います。
ひとつは、どこにいても、どんな人にも同じように、同じクオリティの物が与えられる、供給されるという理想、理念です。
もちろん、現実は不平等であり理不尽な世の中だとしても、理想、理念としては平等を実現すべく私たちの社会は発展してきました。
それは、例えば、蛇口をひねると水が出るとか、スイッチを押すと電灯が灯るとか、一人ひとりにランドセルが与えられ、一人ひとりに机が与えられる。みんな同じようにご飯が食べられる。みんな同じようにお布団で寝れる。みんな同じ映画を見て、同じように誰かを好きになる。というようなことです。
ま、当たり前と言えば当たり前ですが、それを「当たり前」のものとして実現するために私たちは「社会」を作って来ました。

近代以降のイデオロギーが批判されるとき、「均質化」「規格化」「合理化」といったタームでなされることがしばしばあります。しかし、一方でこうした近代的な理念が私たちの生活の基盤を支えています。
いつも同じような毎日が送れること。人とそんなに違わない程度の生活のクオリティ、それがそこそこ頑張れば、誰でも手に入ることの安心感。とても大事なことです。

こうした近代的な理念は、「美術館」や「シアター(劇場、映画館)」「図書館」、「学校」「病院」、小さなものでは町の「公民館」といった近代的な「設備」「装置」の中でも「設計思想」として浸透していますし、もちろんですが「当たり前」のものとして実現されていなければなりません。
例えば、美術館やシアターに入った時に、見る位置、見学者の立場によって見え方が著しく変わってしまう、質が変化する、異なる体験をしてしまってはいけないのです(※コンテンポラリーなアート作品には、逆にあえてそうした見え方の差異を創り出すものもあります。それはここでは例外として。近代以後の構造物のモデルについてここでは記述しています)。

「討論会」の話に戻りますが、ここでは討論の内容はともかく、座る位置によって情報の質や体験に著しい差が生じてしまっています。もちろん物理的な問題は常にあります。物理上「特等席」や「エコノミー席」みたいなものは生じますし、どの位置に座っても同じなわけでは決してありません。しかし、なるべく体験の差異を小さくする、そういう発想で舞台上の演出は成されるのが理想でしょう。そういう意味では、ユーザーエクスペリエンスが良くないわけです。

「たかが花じゃん」と思うかもしれません。ですが、討論のテーマというのはまさに「社会」について話しているのです。
似たような「構造的な問題」は私たちの身の回りのいたるところにあるはずです。これが例えば「文化センター」ではなく「市役所」の内部で起きていて、「花」ではなく「予算」や職員の「働き方」の問題だとしたらどうでしょう。

これは「構造的に生じている問題」です。一概に誰が悪いとは責められません。花を飾った人や演出の考案者はきっとピュアな気持ちだったと思います。
でも山川さんや田中さんが見たいのにずーっとずーっと花を見ていなければなりません。これと似たような体験を私たちはどこかでしていませんか? 職場で、学校で、病院で…。わりといつも。どうですか? 思い当たりませんか?

問題は、私たちはそれに気づくことが出来るか? また気づいたとしても、誰がそれを指摘するのか? その時、私たちはいったん立ち止まったり、それを変更する勇気が持てるか? そういうことだと思います。
たかが「花」ですが、些細な事象からも「社会」の問題を切り取って来ることは出来るわけですね。

ところで、討論ですが、山川氏はエピソードやナラティブの使い方が上手く、さすが年の功か、聴者に安心感、安定感を与えていたと思います。このような場では人の気持ちを揺さぶる言葉の力は強い効果を発揮しますね。田中氏の答弁はテーマについて現実的、根本的です。聞いていて緊張感を感じますが、若いとは言え十六年議会を経験しただけあって、行政のノウハウや問題を解決するための知識、見聞は広く、高い印象を与えていたと思います。
(※あくまで個人の感想です。特定の人を評価するものではありません。本文で興味を持たれたなら、後日何らかの形でアーカイブがリリースされると思うので、是非ご自分でお確かめ頂ければと思います)

互いに好対照の二人であり、その考え方、リーダーシップの質の違いなどがよく分かる討論会で素晴らしかったです。
最後の5分間の演説ですが、双方とも互いの精神と情熱をこめたものであり、討論会の最後を飾るに相応しいものでした。
私も手に汗を握って聞き入ってしまいましたし、熱いものが胸に込み上げて来ました。

皆さん、お疲れ様でした。
余談ですが、リンカーンフォーラムのコーディネーターのお方の技量も凄いなと内心、関心していました。相当に場数を踏まれたとお見お受けします。
このような機会を市民に作って頂いた郡上青年会議所の皆さん、本当にありがとうございました。

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